コロナの時代には、地球のでこぼこが必要だ

コロナの時代には、地球のでこぼこが必要だ

世界は、とんでもないことになってきた。 だれもが想像すらできなかった現実が、目の前にある。 それでも「旅へ出たい」という欲求は、人を動かす。

昨年(2020年)の初頭、僕は、新型コロナウイルスの蔓延は「群れるな!」という人類への警鐘だな、と気楽に思っていた。 ところが、そんな安易な思いではすまされない事態が世界中に広がったのだ。 世界は大きく変わってしまった。 […]

昨年(2020年)の初頭、僕は、新型コロナウイルスの蔓延は「群れるな!」という人類への警鐘だな、と気楽に思っていた。
ところが、そんな安易な思いではすまされない事態が世界中に広がったのだ。
世界は大きく変わってしまった。
しかもここへきて、感染力の強い変異株によりさらなる危機感が迫ってくる。
すでに300万人以上の死者が出ているというのに、感染のピークはまだまだこれからだ、という見解も聞く。

われわれの生活様式も、いままでとはまったく違ったものになってしまった。
いまや外出時の必需品は、財布やiPhoneではなく、好奇心でも冒険心でもなく、マスクなのである。
僕にとってのなによりの変化は、計画していた旅のほとんどが実行できなかったことだ。
「もし人にうつしてしまったら」などと、きれいごとをいうつもりはない。
「うつされたくない」が、本心だ。
がそれ以上に、自然と「密」な関係を築きたいと思っている僕は、ひとりで、あるいは好きな人とふたりで、小さな旅へと、ほんのときどき出かけている。

そういえば、昨年の3月。初の緊急事態宣言が出る前のこと。
僕は一泊二日の小さな山旅へ出るために、食料の買い出しのため近くのスーパーマーケットへ寄った。そこで、トイレットペーパーやインスタント食品の棚が空っぽになっているのを見たのだ。
「買いだめ」したくなる人たちの気持ちはわかるけど、僕はバックパッキング旅が好きでよかった、とあらためて思った瞬間だった。
日帰りでも、一か月を超えるような旅でも、バックパッキング旅の美しいところは、「自分が背負って歩ける荷物だけで、暮らす」ことだ。
それは、「買いだめ」とは、別の思想にある生き方なのだ。

2020年1月。約ひと月間、ニュージーランドを放浪した。
旅から帰ってきたら、世界は変わっていたのだ。

旅へ出ると、いつも同じ思惑が頭を巡る。
それは、「いま、旅へ出るその意味は、どこにあるのだろう」という思いだ。
旅を続ける要因のひとつに、非日常を過ごしたいから、という思いがある。
風も吹かない毎日の暮らしに、飽き飽きしているからだ。
日常とは、「明日も明後日も、たぶんこんな感じで暮らしているんだろうな」と思える日々のことだ。明日も大きくは違わない、と思えるから安心して今日を暮らしていける。
そんな毎日に、「もっと違う刺激が欲しい」と思うから、人は旅へ出る。

しかし、この一年以上、毎日が「非日常」なのである。
今日も明日も明後日も、生きていることが当たり前だと思い、「死ぬことは特別」だと思っていた僕たち。しかし、いまやいつ死んでも不思議ではない時代となった。
いつ死んでもおかしくない自分が、「いまを生きていることが驚き」の時代、に変わってしまったのだ。

SUPで波間に揺られる日もあれば、山を歩く日もあった。
10月の磐梯山旅では、思わぬ雪に降られ、逃げるように下山した。

それでも人は旅へ出る。
それは、「自分自身であり続けたい」からだ。
もっと大げさにいえば、「自殺するかわりに旅へ出る」ということだ(これは、ハーマン・メルヴィル『白鯨』のなかの言葉だったかな……)。

こんなときのために、山があるのだ。海や川があるのだ。
地球にでこぼこがあって、ほんとうによかった。
僕は、またまた発令された緊急事態宣言の文字が太く書かれた新聞を右目に捉えつつも、左目は地球儀を眺めている。
そんな毎日なのだ。

自宅で、もの作りにふける夜も多々あった。
ストラトキャスター(エレキギター)を、アコースティックギターに改造した。