いままで、いくどとなく大地の上で寝てきた。地球のいろんな場所で。
とはいっても、それほどすごいところを歩いてきたわけじゃないけど。
世間でいうところの大冒険をしたきたわけではない。
小冒険、という感じか(僕にとっては、いつも大冒険だったけど)。
いずれにせよ、いろんなところでキャンプをしたきたのだ。
カヌーやシーカヤックにキャンプ道具を満載し、いくつもの海や川を旅した。
日本はもちろん、カナダやアラスカの海、ユーコン川、サハリンの川下り旅をしたことも。
歩く旅も、大好きだった。
バックパックに厳選したグッズを詰め込みアラスカの原野を歩いたこともある。
メキシコの秘境へも行ったし、ブラジルで過ごした1か月もあった。
どれもが長い旅だった。1か月を超える旅も幾度となく。
原野への旅に出ると、はじめのうちは不安から「どきどき」が止まらない。
しかし、3日を過ぎると旅が日常になってくる。そうなると、しめたものだ。
地球上を生きているという、実感がわが心に溢れてくる。
そして、旅が終わると、自分の「立ち位置」が、旅へ出る前と確実に変わっているのを感じることができた。
「バージョンアップした」自分が、ここにいるのだ。
旅へ出ていつも思うのは、自然は「おまけ」をしてくれない、ということだ。
上り坂だって、下り道だって、気温だって、雨だって、風だって、雪だって、、、
なにひとつ「おまけ」をしてくれない。
「後で、ちゃんとお礼をするから。なんなら、現金で」と交渉したところで、冷たい雨は降り続いたままだ。
人間社会に生きていると、厄介ごとは、他人や便利な道具に頼りたくなる。
あるいは、力でねじ伏せたくなる(どこかの国の大統領のように)。それが、人間の(あるいは自分の)強さなんだ、と証明したいかのように。
でも、自然の中ではそうはいかない(それも逃げ場が近くにないような原野であれば)。
冷たい雨が降り続く中、シェルターへ逃げ込みたいなら、「嵐からの隠れ場所」を自分で作るか探すか、しかない。
行動を決めるのは、自分しかいないのだ。
そこは、規則や法律が介入できない場所なのだ。
そこで知ったのは、原野は「法律の外」なんだ、ということ。
いくぶん大げさだけど、原野というのは、そういう場所だ。
全責任を自分で背負って、その行動を決めなければならない。
法律の外で暮らすなら、正直者でないと生きていけない、ということだ。
2000年を過ぎたあたりから、ときどき「キャンプへ行こう」と誘われることがある。
「〇〇キャンプ場はすごくいいよ」とか、「〇〇にオープンしたキャンプ場へ行かないか?」などと声をかけられるのだ。
はじめは、その意味がよくわからなかった。
僕にとって、キャンプは目的ではなく、手段だったからだ。
キャンプとは旅を続けるための手段であって、キャンプを目的に出かけるという発想がなかったのだ(とくにキャンプ場へ)。
それもひとつの時代の流れだ。
どんなスタイルであれ、野外で過ごす時間は長い方がいい。と、僕は思っている。
そういえば、メール(ちょっと前までは手紙だったな)の最後に、いつも「外でうんこしてる?」と聞いてくる友人がいる。
僕がキャンプ場へ行かない理由は、「外でうんこができない」からかもなぁ。