南の島で寝転んでいると、世のよしなしごとなどどうでもよくなってくる。
おっと……。
前回と同じ書き出しになってしまったではないか。
ま、それほど能天気な日々が続いているということだ。
が、シーカヤックに生活道具を積み込んで島から島からを旅すると、さまざまなことが頭をめぐっていく。
僕にとって、シーカヤックやバックパッキングでの旅は、『自由』という言葉を真摯に考えさせてくれるのだ。
シーカヤック旅のなにが、僕に『自由』を感じさせるのだろう?
能天気な日々ながら、ちょっとばかりまじめに考え込んでしまうこともある。
海やそれを取り巻く自然は、人間の都合ではできていない。
潮の満ち引きや、波の高さ、潮流の変化、風の強さ、天気、地形などなど、これらはすべて宇宙が決めることであって、われわれ人間はどうあがいたところで、それをかえることはできないのだ。
さらに自然は、1センチたりとも、1円たりとも、われわれに『おまけ』をしてくれない。懇願しても、おどしても、泣き落としても、わいろをもちかけても。
そんな中を旅する僕たちは、大げさにいえば『命がけ』で遊ばなければならないのだ。
金や過去の栄光や成績や机上の論ではなく、もちあわせている知恵と体力と技術を総動員して遊ぶ必要がある。
自然の中では、自分を大きく見せる必要がない。いいかっこうもしなくていい。
そもそも、大きく見せたところで自然はそんなことには知らん顔だ。
自然には、人間相手にした勝ち負けなんて眼中にないのだから。
人間とのレベルの差とか、人に強さが足らない、という話ではない。
そもそもが、同じ土俵には立っていないのだ。
だから僕たちは、シーカヤックという小さな舟で大海原へ出ると、未熟で、臆病で、やせ細った小さな人間でしかないことを、ひしひしと感じながら漕ぎ進むしかない。
ここは、法律の外なのだ。
人間社会のしがらみとはまったく違うところで生きているのである。
干満を知り、潮流を考え、天気を予測し、波の大きさと向きを把握し。
宇宙からのメッセージを受けとめるがごとく、感性をとぎすませて海の上を歩いていくのだ。
そんな日々に、『自由』が充満していると思わないか?
もっとも、こんなふうに書くとシーカヤック旅はなにやら崇高な遊びのようだ。
が、僕はといえばたいてい……。
今日上陸する浜には、風が吹き抜ける木陰があるだろうか?
焚き火ができる流木がいっぱいあるだろうか?
歩いていける距離に小さなお店があって、そこには島の野菜と冷えたオリオンビールがあるだろうか?
はたまた、そのお店の女の子が「ま~から めんそ~ちゃが?(どこから来たの?)」と笑顔で話しかけてくれるだろうか?
と、自分の都合のいいことばかりを考えながら漕いでるんだけどね。
(写真=山田真人)