日本語イディオムに、「足もとを見る」という言葉ある。
「弱みにつけこむ」といったような意味だ。
野暮を承知でもうちょっと書くと、「街道筋や宿場などで、駕籠かきや馬方が旅人の足もとを見て疲れ具合を見抜き、疲れた客の弱みにつけ込んで高い駕籠代を要求したことからきた言いまわし」らしい。
僕もついつい出会った人の「足もと」を見てしまう。けっして、人の弱みを探ろうとしているわけではない。
人を探ろうとしてしまうのだ。
疲れ具合を見抜こうとするんじゃなく、靴を見てしまうのだ。
そう。靴を見れば、「どんな旅をしたいのか?」、「どんな旅をしてきたのか?」がだいたい想像がつく。あるいは、勝手に想像してしまうことができる。
あるとき、アラスカのトレイルですれ違った男が、僕の汚れたダナーのブーツを指さして「その靴は、どれだけの道を歩いてきたんだ?」と聞いてきた。
そのときの僕は、長いバックパッキング旅の途中だった。
僕もよれよれだったけど、たしかに靴もかなりやつれていた。
なるほど。おしゃれな質問の仕方をするな、と感心した。
それ以降、僕も旅先で出会った人に話しかけるときは、そんなふうに声をかけるようにしている。
そういえば、英語のイディオムに、”be in one’s shoes”というのがある。「~の立場に立つ」というような意味だ。シューズは、比喩的に「立場」を意味するらしい。
靴というのは、英語では大きな意味をもつ存在なんだろう。
大昔に見た映画(「小鹿物語」だったかな)で、お父さんが子どもに「その人の靴を履かないと、その人のほんとうの気持ちは理解できないんだよ」てなことをいっていた。
数年前には、「In her shoes」という映画もあった。
ボブ・ディランの古い歌にも「You could stand inside my shoes(おれの立場にもなってみてよ)」という歌詞があった。
僕の冬の足もとは、もうずっと以前からソレルのカリブーだ。
が、東京に住んでいると使用頻度はとても低い。残念ながら。東京では、ちょっと(いやかなり)オーバースペックである。
もちろん、雪国へ出かけるときは必ず車へ積み込んでいくんだけど、それでも北国で暮らす人が履く頻度に比べると、まったく必要ないんじゃないか、と思うほどだ。
でも、耐久性や機能性などを考えあわせると、ソレルを選んでしまうのだった。それに、ソレルならインナーがへたってもインナーだけを買い替えることができる。
それとこれは内緒だけど、「足もと」を見られたときにいいかっこをしていたいから、やっぱりソレルになるのだった。
しかし、ソレルにしてみたら「かっこで選ばずに、ちゃんと使ってくれよ」といいたいだろう。
僕のソレルは、「下駄箱でじっと待機しているおれに立場にもなってくれよ」と嘆いているはずだ。
今冬の日本は、異常に暖かい。やばいくらいに。
なのでいまのところまったく出番はないが、ソレルは雪の中を闊歩したいに違いない。
どこかへ行くかな。