帆布が好きだ。
ざっくりと織り込まれたコットン製品を持ち歩いていると、心が無農薬野菜のように元気になってくる。帆布をそんなふうに感じるのは、僕だけだろうか。
師も走る12月である。
が、僕はといえば、ゆったりサイズの帆布のトートバッグを肩にかけ「そんなに急がんでもええんとちゃうやろか」と、にぎにぎしく彩られた街を今日ものんびり歩いているのだ。
帆布のトートバッグは、氷の塊を運ぶために作られたのがはじまりだという。
「トート」は、「運ぶ」という意味らしい。
もしかしたら、氷を運ぶというのはすごい重労働で、トートバッグを見るだけで(あるいは、トートバッグという言葉を聞くだけで)、逃げ出したくなる人がいるかもしれない。
そんな人には申し訳ないけど、僕はといえば、トートバッグを見るとついつい立ち止まってしまう日々なのである。
トートバッグをはじめとする帆布のバッグは、いろいろと面倒も多い。
重たいし、かさばるし、汚れはシミになるし、湿ったままにしておくとカビが生えるし。
それに、僕が好きなシンプルなタイプは、ふたやファスナーなどないから油断すると中身がバッグからこぼれ落ちるし(電車の網棚へいい加減にのせると「どどどどどっ!」と中身をばらまくこともある)。
帆布バッグのしんどいところを挙げればきりがない。
このあたりも、無農薬野菜のように不器用だ。
でも、自分自身の生き様や持ちものは、「効率」で選ぶもんじゃない。
気持ちにフィットする方向へ歩いていけばいいのだ。
なぜだろう?
帆布のバッグを持ち歩くと、「深呼吸」しているような気分になるのは。
なぜだろう?
帆布のバッグと一日を過ごすと、「目の前のこと」にとらわれなくなるのは。
なぜだろう?
帆布のバッグを肩にかけていると、「急ぐ」なんて言葉を忘れてしまうのは。
(重たい氷を運んだんだから、昔日の人たちもゆっくりとしか歩けなかったからだろうか)
一杯のコーヒーをていねいに淹れるように。
道端の花を見て立ち止まるように。
落ちている石ころを手の中で転がしてみたり。
帆布バッグを持っていると、心の中に自分だけの箱庭ができるのかもしれない。
こうした心の動きを得られること。それが、帆布バッグのいちばんいいところなんだ。