焚き火をするために出かける、という週末があってもいい。
そもそもぼくは、「ほんとうに大事な話は、火の前でする」と決めている。だから、重要な打ち合わせは、焚き火を前におこなうのである。
すぐに眠くなる会議も、焚き火の前でやれば退屈するどころかつぎつぎとアイデアが生まれてくるのだ。
焚き火の跡は、10年以上たっても消えない。それはどんなに小さなものでも。そんなことは重々わかっているのだが、ぼくたちは機会があれば焚き火をしたいのである。
歩き疲れた一日の終わり、テントを張り、暮れなずむ空を眺めながら座りこむ。旅の途上、いまここにほしいのは小さな火だ。
考えてみれば、ぼくたちは火のある暮らしからずいぶんと遠ざかっている。
炎を見なくても、日々の生活ができるようになってしまった。料理も、風呂も、暖房も。そこに並ぶ道具は、便利なものばかりだけど、心はぜんぜん温まらない。
最後に火を使ってご飯を炊いたのはいつだったか、覚えているかい?
革命の夜以外は、でっかい焚き火なんて必要がない。
料理も、暖をとるにも、小さな焚き火のほうが断然いい。大きな炎は人を遠ざけるけど、小さな火は人を結びつける。小さな焚き火を前に、火と人も、人と人も、ぐっとくっつくほうが暖かい。
そのことを知っている人は、大事な夜には、小さな焚き火を作るのだ。
そもそも男には、頭が切れるといわれるよりも、度量があるといわれるよりも、焚き火がうまいといわれたほうがうれしい、というところがある。
そんな男は、一般社会向きの人間ではないかもしれない。焚き火はだめで原子力はいい、という時代にもそぐわない。
ただし、いまの日本のフィールドでは、安心して焚き火ができるところはあまりない。残念なことながら、こればかりはしょうがない。
たどりついたキャンプ・サイトに、ぼくは黒こげの焚き火の跡を見たくない。
今夜この場所で焚き火をしていいかどうか?
その判断は、命がけでしなければならないことのひとつだ。自然の中にいるということは、法律の外にいるのだから、そこでは正直者にならないと生きていけないのだ。
焚き火は、熱いとか煙たいとか明るいなどなど、ぼくたちの五感を刺激する要素にあふれている。しかも、火力をうまく維持するには、知恵と知識を総動員しなければならない。
オンかオフか。スイッチひとつですべてが動く社会に慣らされているぼくたちにとっては、自然の炎を操るという作業は、人間本来の姿を思い出させてくれるものだ。
調理をし、暖をとり、濡れた体と衣服を乾かし、会話が弾み、活力を呼び起こす。それらが全部できるのは、焚き火をおいてほかにない。
それになにより、女の子を口説くにも焚き火の前がいちばんだ。小さな炎を前に、大きな毛布に二人でくるまり、小声で話をすればいい。
なんでもアフリカのどこかの国じゃ、「愚者は財産を前にして、賢者は焚き火を前にして、結婚を申し込む」という諺がある(かどうかは知らない)。