落ち着かない日々を過ごしていたティーンエイジャーのころ。
ある夜ぼくは、「そんなところでため息をついてないで、こっちへ来いよ。お前の望むものは、すべてここにあるぞ」と、呼びかけられたのだ。
それは、ピンストライプのスーツを着た左目の悪い黒人だったり、汚れたワークシャツの反骨の男だったり、水玉模様のシャツを着た吟遊詩人だったりした。
三人の男たちは、寝ていようと起きていようと、日中であろうと夜中であろうと、どこへでも行く用意ができていた。「さよなら」もいわずに土地を移るのが、日常だったのだ。
朝起きて、ここは自分のいるべき場所じゃないと思ったらどこかほかのところへ移るべきだ、という生き方を実践してきた男たちなのである。
ロバート・ジョンソンは、一九三〇年代のある日、ミシシッピー州の埃風が吹き抜ける十字路で親指を立てた。そこへやってきたのは、悪魔が運転する車だった。
そして、悪魔と取り引きをすることで、ブルースに染まった魂を手に入れたのだ。
その後、アコースティックギター一本を手にアメリカ各地を渡り歩きブルースをうたいつづける。心のいちばん深いところに突きささるような言葉で。
1936年に初めてのレコーディング。37年に、二度目のレコーディング。
が、翌38年の8月、ミシシッピ州グリーンウッドのジュークジョイント(ライブハウス)で、毒殺されてしまったのだ。
人妻に手を出し、その夫に毒を盛られたのだ。
27歳だった。
ちょうど同じ頃、『This Machine Kills Fascists(この機械はファシストを殺す)』と過激な言葉を自分のギターに書いたウディ・ガスリーは、世の中や時代のゆがんだ正義に対し、「それはおかしい!」と労働者たちといっしょに歌いつづけた。
何度も何度も、社会からぶちのめされながら。
しかし、めげることなど一度もない。「おれの過激な魂は、孤立無援だ」とつぶやきながらも、死ぬまで自身の正義を曲げることはなかった。
あきらめたらどんなに楽か、を知っていながら。
アメリカ北部の田舎町に生まれたボブ・ディランは、このふたりの歌を聴いて「苦しみを克服するために音楽の手を借りるのは、逃避ではなく、その辛苦を現実としてはっきりとらえることだ」と知る。
そのときから彼は、嵐の海に船出する海賊のように、なりふりかまわず走り出した。
心の扉を蹴破る言葉と声で、激しい雨がどすどすと足を踏みならすような音楽を創り出した。
歌をうたうことで、世界をちょっとばかりかえてしまった三人だ。
彼らの肉声が地球上に響くとき、地軸はほんの少しずれるのだった。
ある日、三人はそれぞれが十字路にたたずんで、旅へ出るには目の前にどこまでも続く道が一本あればそれでじゅうぶんなんだ、ということを知ったのだろう。
そして今日も、尻尾に火がついたかのように、町を飛び出しいくのだった。
多感期の15歳。ぼくはこんなスリリングな音楽に出会ってしまった。
ぼくにとって、放浪詩人の歌は、裏通りへの招待状だったのだ。
それらは、触れば触るほど、ぼくのなかでたしかな手応えにかわっていった。
彼らの歌をポケットに忍ばせて、ぼくは旅へ出たのだ。
旅のいいところは、その旅が散々な結果に終わっても、「行かないよりは出かけた方がよかった」と思えることだ。
そんなことを教えてくれたのも、この三人かもしれない。
多感期が終わることのない58歳になったいまでも、彼らの歌を聴くたび「すぐにまたどこかへ出かけなければ」と、心が突き動かされるのである。