コーヒーを淹れるのは、ある種、伝統的な儀式のようなものだ。
袋に入っている豆を覗きこむ。豆の色が脳の味覚を刺激する。かすかな匂いが漂ってくる。
適量をとりだし、こりこりと挽く。ふたたび、匂いが鼻をくすぐる。豆を眺めたときとは、ちょっと違う香りだ。
ドリッパーにお湯を注ぐ。ぽた。ぽた。ぽた。ゆっくりゆっくり。膨らんだコーヒー豆から、しとしとコーヒーが落ちていく。生まれたての匂いが立ちのぼってくる。
ここまで、すでに十分前後の時間が過ぎただろうか。
コーヒーが入ったなら、あとはどかっと座って、目の前に広がる景色を眺めながら、この悪魔の汁を五臓六腑に染みわたらせていくわけである。
ぼくは、あるときからコーヒーそのものより、淹れる行程をも含めたその時間を楽しむようになったのだ。
それは、ほんとうにおいしいコーヒーの淹れかたを教えてくれた友人のおかげでもあるんだけど、同時に、さまざまな場面でのコーヒーの味を思い出したとき、覚えているのは味のことではなく、落ちついていった心のことだったからだ。
若き日のあるとき、カナダの原野でものすごく高い緊張感に包まれたことがあった。そのとき、喉がからからになっていることに気がついたぼくは、わざとゆっくりお湯を沸かし、コーヒーを淹れた。もっとも、そのとき持っていたのはインスタントコーヒーだったのだけれど、それでも、その時間と香りのおかげで緊張が解けていくのを感じることができた。
吹雪のバックカントリーで、下山を焦る気持ちを落ちつかせてくれたのもコーヒーだった。避難小屋へ逃げこんで淹れた一杯のコーヒーが、「なあに、耐えて待つことなんてわけもないことさ」と教えてくれた。
旅の途中、「もういやだ。すぐに帰ろう」と思ったときも、コーヒーを飲んで、もういちど考えなおす時間をもつことで、心の平穏を取りもどしたことが何度もある。
「違いのわからない男」は、コーヒーの味よりも、コーヒーを淹れるという「時間」に救われてきたのだ。
というわけで、出かけるときは忘れずに!
コーヒーは、クレジットカード以上に、ぼくにとっては信用(クレジット)がおけるやつなんだ。