ホイール(車輪)のついたごろごろと引っぱっていく大きなバッグは、便利だ。ある時期、ぼくもよく使っていた。
が、なぜか好きになれなかった。あるときから、使うのをやめてしまったのだ。
あれが似合うのは、キャビンアテンダントだけかもしれない。ヒールをこつこついわせながら空港内を歩いている姿を見ると、つい、あんなふうにクールに歩きたい、と思うけど、もちろんわが容姿ではかなりの無理がある。
ホイールつきのバッグを好きになれなかったのは、完成されているからかもしれない。便利すぎるからかもしれない。
旅に制約ができてしまうような気がするのだ。
完璧なものや便利すぎる道具に、「不自由さ」を感じるのはぼくだけだろうか?
それに比べ、大きなダッフルバッグには「あやうさ」がある。
荷物の重量すべてが、わが肩にかかってくるのだが、これを持ってよれよれと歩いていると、どこへでも、どこまでも、行けそうな気になってくるから不思議だ。
ダッフルバッグは、道具として「軽い」からかもしれない。ここでいう「軽い」とは重量のことだけではない。
持っていて心が軽くなる、という意味だ。「軽妙」といいかえるほうがいいかもしれない。
快適さだけではなく、旅に自由を強く求めるなら、軽妙な道具がいい。
ダッフルバッグを引っ張り回して旅をつづけるのだ。バッグに引っ張り回されるのではなく、バッグを引っ張り回すような旅がいい。
もっとも、ぼくの場合は人間的にもじゅうぶんに「軽い男」なので、「軽いもの同士の深いつき合い!」を望んでいるのかもしれない。
軽妙なバッグは、軽はずみなぼくを、よりはずませてくれるのである。
試してみるといい。
たとえば、海外、国内を問わず、ちょっとばかりあやしい裏通りを汚れたでっかいダッフルバッグひとつかついで歩いてみる。と、必ずやその薄暗い通りよりも『あやしい』やつが声をかけてくる。
その瞬間、旅は新しい局面を見せはじめるのだ。
いずれにせよ、元気なうちは、便利すぎる道具はやめておいたほうがいい。
よれよれと歩くことになるかもしれないけど、自分の荷物は自分でかついで旅をつづける。
いくつになっても自分のスタイルをあきらめない。ぼくは、そんな生き方が美しいと思うのだ。