ある日あるとき、古い友人である伊東孝志画伯と旅へ出た。
伊東画伯さんは、南の島より流れ着いたココナツのような体型と風貌で、水彩の落書きを糧として日々をさまよっている人だ。ひとりでふらりと旅へ出るのが好きで、シンプルなキャンプ道具と食料を積みこんで、シーカヤックを漕ぎ奄美の島々を渡り歩いたりもしている。
大きな客船にはかならず楽団が乗っているように、伊東画伯のその荷物のなかには、コンパクトな画材道具とクロッキーブックがいつも入っている。もちろん、それは商売道具でもあるんだけど、そんなことより旅の楽しみのために、という色が圧倒的に強い。
ぼくもまた、それをまねてまったく同じ画材道具を買いそろえバックパックに忍ばせてきた。同じ景色を前に、同じ道具を使えば、同じような絵が描けるんじゃないか、と思ったのだ。
なんたって伊東画伯は、「丸いものだからといって、丸く描く必要はないんだよ。四角だっていいし、三角だっていい。自分が感じたように描けばいいだけ」という。
「いま感じている驚きや喜びをすぐにでも書きはじめたいから」と、下描きはなし。五感を通して感じるままに筆を走らせることが、絵を描く喜びであり楽しさなのだ、という。
そして、「クロッキーブックの上では、木や空や雲などを自由に動かせるから、まず自分の好きなものを好きな位置に描いていけばいいよ。大きさも変えたっていいんだよ」と、自由に描くことを強調する。描く人の価値観と想像力をフルに発揮して絵筆を持てばいい、ということだ。
伊東さんは、正確に描写をするべきところと、感覚に頼って大胆に変えていく楽しさを、絵を描きながら伝えてくれた。
「それなら、おれにも描けそうだ!」と、思うじゃないか。
結論からいってしまえば、やっぱりぼくにはなにも描けなかった。メッシと同じスパイクを履いても、ドリブルがうまくなるわけではない。そんなことはわかってるけど。
しかし、絵を描こうとしたことで、ひとつのものをじっくり見る、というときを過ごせたのである。自分の目でしっかりものを見つめ、自分の感覚でその景色を表現していくことを、その時間は教えてくれたのだ。
時間をかけ、静かに万物を見つめていると、自然はいろんな姿を惜しげもなく見せてくれる。
なるほど。ひとつのものを時間を気にせずじっくり見つめる、なんてことを近年は、すっかり忘れていた。
大きな自然を前に座りこんでいると、やがて、いままでは気がつかなかった細部が目に飛びこんできて、さらにはその風景の奥にひそむ物語が感じとれるようになってくる。
絵を描くというその行為のおもしろさは、こうした時間を過ごせるというところにあるのかもしれない。
目に見えているその向こう側にある物語を感じ取ることから、絵を描くという作業がはじまるのだ。絵の道具をポケットに入れて旅をすることで、自分のなかに新しい目がひとつできたような気がしてくるのだった。