山でも町でも、海でも川でも、「好きなものを着ればいい」とぼくはつねづね思っている。
自分がいちばん好きなウェアに身を包んで遊べばいい、と。
アウトドア・ウェアは、化学繊維が全盛だ。
なんたって機能的である。汗をかいてもべたつかず、乾きが早く、洗濯も楽で、しかもじょうぶ。安全性も高い。
でも、機能ばかりを追求すると、遊び心を忘れてしまう。
ヒマラヤへ行くわけではない。ぼくたちはウラヤマで遊ぶのだ。
「山では、○○○のアンダーウェアに△△△のミッドに……」てな物知り顔の話は勘弁してほしいのである。
機能追求は冒険家にまかせよう。
暴言家のぼくは「ウェア選びは適当でいいんじゃないの」と適当なことをいっている。機能がいっぱいあっても、どうせ忘れてしまうし(なので、妄言家と呼ばれることも)。
とはいえ、日本のウラヤマもあなどれない。
いくつもの山を歩いていると、ときには、緊張感が「ぐっ!」と高まる瞬間もある。
もちろん、暑さ、寒さ、雨や雪、風や嵐などへの対策をしっかり考えた隠し球は装備している。
それでも、「ちょっとやばいぞ、この感じ」と、いやな汗が流れるときもあるのだ。
が、そんなときでも、緊張感とはまったく無縁なリゾートあふれるアロハシャツ姿に、気持ちが落ち着くときもある。
なんとかなるような気になってくるのだ。
そうそう。
こんなぼくでも、アロハを着ずに山へ行くこともある。
2年前の3週間にわたる北アルプス縦走旅へは、アロハシャツをもっていかなかった。機能を優先したのだった。
今夏もどこか行こうかな、と考えている。
でも、1週間を超える旅になると、そのわずか210グラムを考えてしまうのだ。
そんなことを真剣に考えるというところも、山旅とアロハシャツはいい関係だ、とぼくに思わせてくれるのだ。
そういえば、ずいぶんと前の話だけど、ある登山口で登山届を書いているときに怒られたことがある。「そんなかっこうで山へ登るかっ!」と。
ぼくは短パンにアロハシャツだった。
「山を舐めるんじゃない」と、登山口事務所のおじさんは怒っているのである。
いうまでもない。自然を舐めているわけじゃない。そんなことに怒る社会を舐めているのだ。そういう世の中を茶化したいだけなのだ。
(「いうまでもない」ことなので、おじさんにはなにもいわなかった)
ただ、そのときぼくの中でひとつのことがはっきりしたのだ。
どうしてぼくは山でアロハを着るのか……。
もしぼくが遭難でもしたら、「ほらいわんこっちゃない。あんなちゃらちゃらしたかっこうで山へ登るからだ」と、いわれるだろう。
そんなふうにいわれたくはない。だから、ぼくは山で事故を起こすわけにはいかないんだ。
自分自身の緊張感をより高めるために、ぼくはアロハシャツを着て山に登るのだ。