「椅子に座る」ということ

「椅子に座る」ということ

「不便を愉しむ」ために、ぼくは外遊びへ出かけていく。 が、いつの間にやら、野外でも快適を求めてしまう愚かな自分がいる。 もちろんキャンプ用チェアにはなんの責任もないんだけど。

 野外では、地面に「じかに」座るのが好きだ。  大地に直接、いやもっと大げさにいえば地球の上にそのまま座りたい […]

 野外では、地面に「じかに」座るのが好きだ。
 大地に直接、いやもっと大げさにいえば地球の上にそのまま座りたいのだ。いつもそうしたい、とぼくは思っている。
 と、書き出してみたものの、ここで大いに困ってしまった。
 今日は、キャンプ用チェアの話をしようと思っていたのだった。

 そもそも、キャンプで椅子に座るという風習が日本で生まれてきたのは、いつごろからだろう。
 キャンプ用チェアというものが生まれたのは、いつごろだったんだろう。
 1960年代には見なかった。70年代後半あたりからだろうか。

 人が座るのは、それは疲れを軽減するためだったはず。昔日の人たちも、旅の途中、大きな石に座ったり、倒木に腰をかけたりして休憩をとっただろう。
 そんなこんなから、椅子が生まれたはずだ。

 が、椅子が歴史的発展を遂げるのは、もうひとつの起源から生まれた要素が大きい。
 それは、「権力」の椅子だ。
 チェアマンや首席、主席、首座などなどの言葉からわかるように、椅子と権力は密接な関係にある。
 椅子は、権力の象徴でもあった。
(もっとも、このあたりの話になると長くなるし、キャンプ用チェアとはかけはなれてしまうので、こうした話はまた今度。)

 ぼくがはじめてキャンプ用の椅子を意識したのは、ガダバウトチェアを知ってからだ。
 もう、30年以上も前のこと。
 当時、1万5千円ぐらいしたと思う。キャンプで椅子を使う習慣もなかったから、すごく高値に思えたが、そのデザインの美しさにすっかり惹かれてしまった。がまんができなくなってしまったのだ。
 そして手に入れてわかったことは、デザインだけではなく、その座り心地のよさだった。
 それ以降、ぼくの車には、いつもガダバウトチェアが積んである。

 ガダバウトチェアを買ったばかりのころ、うれしくてしょうがないぼくは、どこへ行くにも持ち歩いた。
 できることなら荷物を少なくしたい列車でのフォールディングカヤック旅へも、持ってことがある。
 やはり、権力を身につけたような気分に陥っていたのかもしれない。人知れず、優越感に浸っていたのかも。
 椅子に座ることの快適さに酔っていたのだ。

 いや。「キャンプで椅子に座るな!」といってるわけではない
 お気に入りの椅子を手に入れたなら、できることならいつもいっしょにいたい。当たり前だ。
 ただ、椅子に座るのは別にいいんだけど、椅子に座ったからといってふんぞり返るのはやめておくほうがいい、といいたいだけなのだ。ふんぞり返っていると、いつかうしろへひっくり返るからね(とくにぼくのように、すぐうぬぼれる人間は)。
 いまの時代、椅子に座ったからといって特別な地位を得たわけではない。

そしてこれもまた野外で座るには最高のグッズである。ヘネシーハンモック!

そしてこれもまた野外で座るには最高のグッズである。ヘネシーハンモック!

 でもこうして椅子に座る楽を得たからこそ、地面に直接座る「不便を愉しむ」というぜいたくを改めて知ったのだ。
 やっぱり地球の上に「じか」に座るのが好きなわたくしである。

 それはそうと、高校生のとき、琉球詩人・山之口貘さんの「座蒲團(ざぶとん)」という詩を知った。
 そして、紅顔の少年は圧倒的な影響をその詩から受けたのだ。

ぼろぼろになってしまった山之口貘さんの詩集。いまでもときどき本棚からひっぱり出す。

ぼろぼろになってしまった山之口貘さんの詩集。いまでもときどき本棚からひっぱり出す。

『座蒲團』(山之口貘)

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲團で
その上にあるのが楽といふ
楽の上にはなんにもないのであらうか

どうぞおしきなさい
とすゝめられて
楽に坐ったさびしさよ
土の世界をはるかに
みおろしてゐるやうに
住み馴れぬ世界が
さびしいよ

 もちろん、この詩は暗誦している(高校生当時は物覚えがよかったからね)。
 そしていまこのコラムを書いていて気がついたけど、結局のところ地べたに座りたいのは、この詩の影響からなんだろうな、ということだ。
 あのころから、なんら変わっていない、というか。

 とはいえ、ぼくの車にはいまもガダバウトチェアが積んであるけど。