テントの中で雨のしとしと音を聴いていると、まるで素敵なソファの上にいるような気分になってくる。何時間でも、ごろごろとまどろんでいられるのだ。
静かな雨に音には、トランキライザーが含まれているのかもしれない。
だから、朝起きてしとしと雨が降っていたら、もうぜったいにテントから出たくない。ずっと眠っていたいのだ。死んでるんじゃないか、ってだれかが覗きにくるまで。
そんな雨の日は、のんびりと停滞したい。
雨の日に限らず、旅の種類によっては停滞ということが、けっこう多い。とくにシーカヤックの旅は、風が強く波が高いと停滞となる。残雪のテレマークスキー旅もそうだし、バックパッキング旅でも停滞は多々ある。
ぼくは、隙さえあれば「人生をさぼりたい」と思っているからか、なぜか停滞の多い旅ばかりに興味をもってしまうようだ。
たとえば、どこそこまで行くみたいな大目標があって、しかもそれが「絶対的」な旅の目的だと、停滞はただのマイナスでしかない。でも、目的地へ着くことが旅の「絶対的」な目的でないなら、停滞は大いなる充実した時間となるわけだ。
ジャック・ケルアックは、「生きている間に、どこまでも退屈な孤独を一度は経験する方がいい」てなことを書いている。ぼくも遅ればせながら「そうだ!」と思っている。
人は、いろんなことを忘れたいがために旅へ出るのかもしれない。そしてその忘れたいことのいちばん大きなものは自分自身なのだ。
日々の生活で、自分自身は、腐りかけているし、汚れているし、錆だらけだし、疲れてる。そんな自分を忘れる、あるいは洗い流すために出かけることがある。
で、青空のもと、どこまでも広がる草原を前にして、「小さなことでくよくよしてんじゃないよ」てな感じのときもあるけど、人がだれもいない殺伐とした荒野で、雨が降り止まず、空は暗い、どこへも行けない。そんなとき、ほんとうは忘れたかった自分自身と真正面から顔をつきあわしてしまうことになるのだ。
そしてそのときはじめて、自分自身が分解していくのだ。
雨は、お百姓さんや魚や草木にとって重要なことのように、旅をする人間にとっても大事な時間なのかもしれない。
ただし、ひとり旅の長い停滞に、精神世界で遊び過ぎたと思ったなら、いよいよ雨の中を出ていくときが来た、ということだ。
どんよりと重たい空に下を、黙々とうつむいたまま歩けばいい。延々と。
そしてあるとき、ふと空を見上げると、西の空のその向こうに希望が見える瞬間がある。
だれもの顔に笑みがもれるひとときがくる。
地球はぼくたちを裏切らない!