キャンプの朝の偶然

キャンプの朝の偶然

朝起きたとき、目に飛び込んでくる景色がある。 そしてそれがずっと忘れないこともある。 さて、今日はどんな一日がはじまるのだろう。

朝早く目が覚めると、藍色の染料を流しこんだかのような空気があたりを包んでいた。息を吸い込むと、そのまま胸まで染まってしまいそうな「藍」だ。 東の空がうっすらと輝いている。 朝もやに揺れる天塩川の川面が、その向こうに見える […]

朝早く目が覚めると、藍色の染料を流しこんだかのような空気があたりを包んでいた。息を吸い込むと、そのまま胸まで染まってしまいそうな「藍」だ。
東の空がうっすらと輝いている。
朝もやに揺れる天塩川の川面が、その向こうに見える。そのままはさみで切り取って、記憶の壁にピンでとめておきなるような印象的な眺めだ。
が、そんな時間はほんの一瞬で、空気の色は刻々とかわっていく。
川下りの旅をしていると、こうした風景を迎えるためにここまでやってきたんだ、と思える朝がある。ほんのときどきだけど。

テントから外を覗くと、ちょうど日が昇るところだった。

テントから外を覗くと、ちょうど日が昇るところだった。

山での朝は、早い。
夏山では、これが必然となる。
朝早くに出発して、その日の目的地へできることなら昼頃には着きたいからだ。昼を過ぎると山の天気は変わりやすい。稲妻が走る夕方もある。
行動時間を長く取りたいがために、暗いうちに出発する人も多くいる。
山の早起きは必然ではあるんだけど、朝早く起きることでいままで知らなかった風景に出会えることが、多々ある。これは、うれしい偶然だ。
朝の空気は澄んでいるから、遠くまで見わたせる。
石川県と岐阜県にまたがる白山へ登ったときには、はるか北アルプスから朝日が昇ってきた。まさかそんな光景が見られるとは思っていなかったので、思わずわが目を疑い、その光に神を感じたほどだ(ふだんは、まったく信仰心のない僕がいうのもなんだけど……)。

今日は、どんな一日が待ち受けているのだろう。

今日は、どんな一日が待ち受けているのだろう。

南の島では、海に沈む満月もあった。
東の空がぼんやりしてきたころ、水平線に静かに沈んでいく赤い月を見た。
夕暮れどきに、東の空から昇る黄色い満月も好きだが、海に沈む月が夕陽以上に切なさを訴えていることを知った朝だった。

静まり返っている深山の朝。風も立ち止まっているかのようだ。

静まり返っている深山の朝。風も立ち止まっているかのようだ。

とはいえ、僕は子どものころから朝寝坊が得意だった。
というか、朝寝坊が大好きだった(どちらかというと、いつまでの寝ていたいほうだ)。
そんな僕が、「朝早く起きるといいことあるぞ」などというつもりはない。
ましてや、「朝型人間は成功する」とか「集中力が高まる朝の時間を有効に使え」とか「朝日を浴びて身体を覚醒させれば、うんぬんかんぬん」などと教訓めいたことを書く気もない(その手のことは、啓蒙本がいっぱい出てるから、そっちをどうぞ)。
朝寝坊が好きな僕でさえ、旅の途上では神秘の朝の風景をいっぱい見てきた、ということだ。

不穏な気配が漂う朝焼けもある。

不穏な気配が漂う朝焼けもある。

しかし、びっくりするような景色に出会うのは朝に限ったことではない。
昼間でも、夕暮れどきにも、深夜にも、野外には神秘が多い。
八ヶ岳では、満月の雪原をさまようキツネがいた。北アルプスで見た信じられない数の流れ星。神々しいまでの真夜中の稲妻。夕陽を浴びたクジラの寝返り。海上を走っていく竜巻。
そんなこんなを見たければ、野外にいるときは寝てる時間なんてこれっぽちもない、ということか……。

暗雲が流れゆく朝もある。

暗雲が流れゆく朝もある。

すべては偶然の景色だったんだろう。
しかし、それらはそこにいたから見ることができた風景なんだ。
あるときは「ふと目を覚ますと」だったし、別のあるときは「ふと振り返ると」だった。
それは頭の中に住む小人が、僕の脳みそのどこかをノックしたのかもしれない。「お前が好きな景色が広がっているぞ」と。
野生が発するいろんな声が聴こえるようになればいいな、と僕は思う。
そのためにも、さまざまなところへ出かけていくのだ。
まだまだ、いろんな神秘と出会いたいから。

ムササビウイングの朝。

ムササビウイングの朝。

まだ眠っている身体に、「そろそろ起きろ!」とうながしてみる。

まだ眠っている身体に、「そろそろ起きろ!」とうながしてみる。